Ryuji Hirao ① 平尾隆次

Ryuji Hirao ①・→・ Plofile ②

出身地 三浦半島
担当 アコースティックギター

埼玉県川越市の病院で、4300g越えというジャンボなベイビーとしてこの世に生まれるも、現在は中肉中背の自称無口なナイスガイ。

幼少時はバスケットボールや野球に情熱を注ぐ、丸坊主頭のスポーツ大好き少年!
中学へ進むと坊主頭に別れを告げ、兄や友人、先輩等の影響もあり、チックやポマード、VO5等で、毎朝のように鏡の前に座り、念入りに髪型をセットしていた(笑)
中学卒業後は工業高校(機械科)へ…入学してすぐ、いきなり1ヶ月半のお休みをもらうなど、なにかと波乱万丈のスクールライフであった。


そんな中、高校2年の夏に約1ヶ月間のホームステイの為渡米。
ステイ先で遊び呆け、ホストファミリーから合鍵を渡され、米国で鍵っ子となる。

ホストファミリーは親切で、恵まれた環境の中、とても楽しく充実した日々を過ごすも、食文化にだけは対応できず、帰国後は真っ先に母の手料理に食いつき、食がどれほど重要かということに初めて気が付く。


10代中盤でよく聴いていた音楽は
「亜無亜危異」・「THE BLUE HEARTS」・「LAUGHIN' NOSE」・
「BOØWY」・「REBECCA」
洋楽では
「DEAD OR ALIVE」・「ZZ Top」・「Van Halen」などだった。
(当時Country Music はほとんど聴いていなかった… )


高校時代後半、日本全国で「バンドブーム」が巻き起こる。
当時テレビで「いか天」(*1)という人気番組が放映されて、日本全国のミュージシャンを志す人たちに、その影響は大きかった。

高校卒業後「花の都大東京」にて某大手企業に就職。
仕事を覚えること以外に大変だったのは、迷路のような都内の地下鉄の路線図を把握することであった。

ggap

仕事、仕事の日々を送っていた社会人2年目のある日、衝撃の出会いが…
それは友人が購入したアメ車であった。「ウォ~!カッコイイ~!!!」

大きなボディ、迫力あるエンジン音に一瞬で魅了され、当時の愛車(*2)を手放し、シボレーカマロ(1979年製Z-28)を購入!(画像左)
休日はアメ車仲間(*3)と定期的に関東各地へ走りに行っていた。


燃費はリッター2km…当時、給料のほとんどを車につぎ込む生活であったが、とにかく楽しくてしょうがなかった。





一身上の都合により、某大手企業を退職後、生活の拠点を都内に移し、サービス業の世界へ転身!調理や接客などを学ぶ為、いくつかの飲食店で修業。

26歳、父の経営するライブハウスレストラン『COUNTRY HOUSE』(*4)の門を叩く。

カントリーハウスでは毎晩カントリーミュージックのライブが行われている為、「お前もチャレンジしてみるか?」との言葉をいただき、27歳の時に、『Merle Haggard』というカントリー歌手の『Sing Me Back Home』という曲にチャレンジした。(歌詞の内容は悲しい曲だが、今でも大好きな曲である)


その後、どうせならギターにも触ってみたい!という気持ちから、父親所有の『Martin』のギターを借り練習に励んでいたところ、「オイオイ...いきなりMartinのギターで練習かよ~!」と、周囲の人からの非難にも耐えぬいて現在に至る。


現在は両親、多くの素晴らしい人達、そして大事な仲間に支えられながら、『COUNTRY HOUSE』の若旦那を務める一方で、個性派集団のカントリーバンド「G★GAP」のリーダーとして、『COUNTRY HOUSE』での定例ライブや各地イベント等で活動している。



*1
「三宅裕司のいかすバンド天国」というTBSの番組。(1989年・2月~1990・12月)
この番組には、現在G★GAPのメンバーである村中靖愛氏、そして僕の尊敬するヴォーカリストSHIMEさんも出演していた。

*2
三菱スタリオンGSRⅡ(2000cc)。特徴のあるスタイルの3ドア(リフトバック)の車。
個性的な車であったが、あまり人気のなかった車でもあった。

*3
「YOKOSUKA BLUE MAX」というアメ車愛好者で結成されたチームに入っていた。
メンバーは地元横須賀出身者が中心であった。

*4
父親が1976年に始めたカントリーミュージックのライブハウス
スタートは飯田橋、現在は赤坂一ツ木通りに店をかまえる。
日本におけるカントリーミュージック界においては有名なライブハウス。
http://www.countryhouse-tokyo.com/
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